2015年4月16日木曜日

ちいさな芸術論➋「詩情と芸術と」

 今回は、詩人・谷川俊太郎氏(1931~)の『詩はどこへ行ったのか』というインタビュー記事 (朝日新聞・2009年11月25日、オピニオン欄)にふれたいと思います。


人間を 宇宙内存在  社会内存在 が重なっている と考えると分かりやすい。生まれる時、人は自然の一部。宇宙内存在として生まれてきます。成長するにつれ、ことばを獲得し、教育を受け、社会内存在として生きていかざるをえない。

 氏の語る人間の存在性は「二重の円」として思い描けるでしょう。内側にある円が「社会内存在」、それを包む大きな円が「宇宙内存在」。わたしたちはそうした二重の存在である、というのです。
 続けて詩人は、散文(=日常生活で使っている書きことば、話しことば)との違いについて、わしづかみに語ります。

散文は、その社会内存在の範囲内で機能するのに対し、詩は、宇宙内存在としてのあり方に触れようとする。言語に被われる以前の存在そのものをとらえようとするんです。
秩序を守ろうと働く散文と違い、はことばを使っているのに、ことばを超えた混沌にかかわる。

 ここでの「宇宙内存在としてのあり方に触れようとする」詩とは、絵画、音楽・・・あらゆる芸術的な創作に置き換えられると思います。
 だから芸術の本質は、けっして「現実からの逃避」なのではなく、現実-日常-社会的な時間・空間を超えて、宇宙的な時間・空間につながる、存在をかけた純粋な営みです。


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『詩』には、二つの意味がある。詩作品そのものと、ポエジー詩情を指す場合です。詩情は詩作品の中にあるだけではなく、言語化できるかどうかもあやしく、定義しにくい。
でも、詩情はどんな人にも生まれたり、消えたりしている。ある時には絵画に姿を変え、音楽となり、舞踊として現れたりします。

ぼくが生まれて初めて詩情を感じたのは、小学生の4年生か5年生くらいのころに、隣家のニセアカシアの木に朝日がさしているのを見た時です。生活の中で感じる喜怒哀楽とはまったく違う心の状態になった。美しいと思ったのでしょうが、美しいということばだけで言えるものではなかった。自分と宇宙との関係のようなものを感じたんでしょうね。

 私は《 詩情(ポエジー) はあらゆる芸術の種(たね) 》であり、詩情はあくまで自分の、外の世界とのかかわりの中に見出されるものだと考えます。




 

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